Chiezaru’s diary

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この不便さだけは方便ではない


【 馬車と凱旋門 】- ローマ
Canon EOS 5D + Sigma EX 17-35mm f2.8-4 Aspherical HSM

ローマにはコンビニもなく、24時間経営のスーパーなど皆無に等しいので夜中に腹が減って何か食べたくても家にストックがなければ、選択肢は我慢。それしかない。

そして、そういう不便さいうのは嫌いじゃない。その分翌朝のコルネットとコーヒーがおいしく感じるかもしれない。

大抵の不便さというのはフェーズを変えて見てみれば、それを補うために自分で工夫する必要性を要求されるので、想像力を使うし、ひいてはそれが応用力につながる。何かしら自分にとってプラスになる要素を見つけることが出来る。

が、殊、日本語の本を置いている本屋が一軒もないというのはどうにもポジティヴな要素の見当たらない不便さで、ローマに住んでいてもっとも倦んでいることでもある。

もちろんここ数年は日本からネット通販で購入できる。しかし、インターナショナルの送料が余計にかかるし、どうしても自分の買おうと思っているものしか発注しないので、思いがけず面白い本を見つけるということがない。

本屋に行って、話題の新刊やら、まだ読んだことのない作家の小説やら、どこかで聞いたことのあるタイトルやらを手に取り、立ち読みしてちょっとテイスティングする愉しみがないというのは人生におけるちょっとした損失だと思う。

もちろん、じゃあイタリア語の本を読めばいいじゃないか。イタリアにも本屋は多くあって、良い本が沢山あるじゃないかというのも正論だと思う。でも自分の場合、自分だけの時間に読書を愉しむためには母国語でないと駄目なのだ。(映画は逆でオリジナルの言語の方が良い。)伊語や英語で読むとどうしても勉強の感覚なってしまって肩がこる。リラックスできない。

それから、じゃあストックにあるまだ読んでいない日本語の本を読めばいいじゃないかという意見もある。
まさしく。これも正論。(『魔の山』と『虞美人草』でまたしても停滞している・・)しかし、恥を忍んでいえば、自分に合っていないのか自分にその本を読む準備が出来ていないのかそれは置いておいて、進まない本は進まないのであって、無理やり読んでも身にならない。

そういうところは、子供の頃ご飯を食べていてお腹が一杯なのに、でもデザートだけはばっちり入ってしまうあの感じに似ているのかもしれない。食指のむかないものは食べたくない=食べたいものを食べたい。

本不自由。ローマに住んでいてこれについてだけは留保無くストレスが溜まることのひとつとして挙げられる。

本が手に入らないことでひとつだけプラスになる側面があるとしたら、それは狭い家の収納の問題が制御されることがあるかもしれない。
自分には本を捨てることは思い出を捨てることに等しい蛮行と見做しているところがあって、どんどん溜まっていってしまうのだ。

でも、それってあまりに消極的な良いところ探しだよな・・と思う。

日本の本でいっぱいのでっかい本屋に行きたいなぁと思う今日この頃。