料理と片付け
【 食器乾燥棚 】
Olympus PEN E-PM1 + M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8
(奥板の模様がちょっと微妙なので一応注釈を。カビではありません。あくまでも模様です。−笑)
個人的な経験として、人と話していると料理をするのが好きな人というのは嫌いな人よりも多いように思う。
自分もその例に漏れず料理をするのは好き。
一方、食べた後の洗い物の段になると比率は180度転回する。嫌いな人のほうが多い。
自分の場合はこれもまたけっこう好きだったりする。
友達とディナーなどに行くと時々この手の話が出るが、(特に他にカップルと一緒のときなど)ことによると点数取りのような発言とみなされているかもしれない。
でも、どういう訳か、本当に食器洗いは苦にならないのだから仕方がない。
そんなことで嘘をついても仕方がないので本当のことを言う。
先日晩餐のあと、シンクに立ってスポンジで皿の裏をこすっている時に閃いた。あ、なんで皿洗いが好きなのか判った、と。
簡単に言うと料理をするのは表現の形態の一つだということ。
完成品に向けて作り上げていく建設的なものなので楽しいのだと思う。
仮に一人で自分のために作っているケースでも、ある程度他者を想定しているのではないだろうか。
つまりコミュニケーションが前提とされているということで、料理を作るというのは社会的な行為であるという定義をしてもよいだろう。
一方、皿洗いというのは結果のみが大切なのであって、洗い終わった食器たちがクリーンならばそれで全目的が達せられる。(人によってはそこで使う水や洗浄剤の量を気にする人はいるかもしれないが。)
とにかくそこには包丁さばきもなければ、盛り付けも隠し味もない。
純粋な目的の達成、結果のみが重宝される。
没個性な仕事でもある。
実際にそれをしているときの自分の意識を振り返ってみても、料理をしているときと皿洗いをしているときのそれはまったく違う。
作っているときに頭の中にあることは食材の組み合わせや調理の仕方、プロセスの順番についてなど、考えていることと目的とがシンクロしている。
対して、後者。流し台の前ではもちろん食器やグラスを壊さないようにとか、縁のくぼみとか裏の糸尻のところまに汚れが残っていないかとかその辺には気は配っているものの、どちらかというと手は勝手に動いていて、頭ではまったく別のことを考えている。仕事のことであってり、最近読んでいる本のことであったり、観た映画だったり、一時一時勝手な思辺を行ったり来たりさせている。
完全に自分だけの時間といってもいいかもしれない。
内省的な時間に当てている。
外に向けて思惟を働かせたあと、求心的な思索に入るというのはバランスが取れているようにも思える。
料理を作ることと洗い物をすることのワンセット。
どうやら二度愉しいらしい。面白いことに気づいた次第。
そんなわけで今日はいつもは脇役の食器棚をメインに写真でアップ。