Chiezaru’s diary

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攻撃性と加虐性の違いについてまとめ切れない雑記


【 地上に降りた天使 】- ローマ
Olympus PEN E-PM1 + M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8

先日ドラマ(新しい)『家族ゲーム』の最終話を観た。

数年前しばらくの間、日本では格闘技ブームがあったが、あの社会現象の底にあったものは何であったか。

リングの上で戦っていた選手たちはある意味で代理戦闘者ではなかったのかと考えている。
外から見ていて、あの流行り方は自分の目にはちょっと異様に映った。
社会に許されていた唯一の暴力の発露の場。日常生活中では否定された攻撃性を肩代わりする者たち。彼らを通して人々は鬱憤(破壊欲求)を解き放っていたように思える。

それも去り、今。最近のニュースを読んでいると、日本ではそんな代理人たちのアグレッシヴさすら許容範囲から追い出されてしまったのではないかと思うことがしばしばある。

攻撃性は加虐性と同一視され、社会は圧力をかけてそれを封印しようとする。個人の上にのしかかる全体主義的な暗黙の強制虚勢のようなもの。

が、エネルギー自体を消滅させることはできない。

抑圧された荒き心は静かに形を変えて鬱々と空気に溶け込んでいるように思われてならない。

結果、行き場のない蓄積は反暴力の旗の下、逆手をとるように、より精神的暴力へ放出されるようになった。

○○ハラスメントということばのヴァリエーションの増加もそれに関係しているように思う。

細分化。

名前がつけられれば事象は目に見える形になる。
具体化さえしてしまえば、同時に、攻撃に対する防御策と、更なる先鋭化された、それも大義名分を持った報復も可能になる。(そのゲームに上手く順応できない者はキレたりする。)

たらいまわしの攻撃性。
無意識的に多くの人々はそれを抱え込んで生活している。
気づいている者も、みんなそうしてるんだからしょうがないと考える。実際にどうしようもないのだから。

社会全体が軽い鬱になるというか、そうしていなければならないという空気。そうでもしていないと爆発してしまうとう恐怖がその根底にあるのかもしれない。

溜まったエネルギーが正しい形で放出されないために醗酵し精神を腐らせる。滞った循環。

そんな図式がふと頭の中によぎった。

怒りを面に出すことは攻撃=加虐=いけないこと。

でも人には喜怒哀楽がある。そして怒は悪い感情ではない。健全に怒ることは自然なことであり大切なことであると思う。

同じ感情は同じ感情とシンクロすることで共感がある。
端から見ていて一番美しくないのは怒っている人。
四つの感情の中で他人が一番共感しずらいものなのは確かだと思う。

・・・長くなった。

さて、何を言いたかったのたったか。

ま、いいや。

ところで『家族ゲーム』と『家政婦のミタ』にはオーヴァーラップするものがある。