Chiezaru’s diary

字を書くときはChiezaruで写真を撮るときはMeta_Monkey

紫蘇的抱負


【 紫蘇之種撒完了之図 】
Olympus PEN E-PM2 + Panasonic lumix 20mm f1.7

多分人生で初めてとなる家庭菜園なるものを。

といっても日本で種を購入して、これを実行しようと決めたのは彼女の方なので自分はアシスタント的に鉢と腐葉土を近所のお店に買いに行くのに付き合い種植えを手伝って、種の入っていた袋の上部を切り取って札を作ったくらい。

でも漁夫の利的に日記の素材に頂いてしまうことに(笑)。

正直なところ彼女にしても自分にしてもグリーン・サム(green thumb=緑色の親指= 園芸の才)を持っているようには思えない。

自分に関して言えばその能力は一度すら試されたことが無い。

果たして、今さらどうしてそこまで無頓着だったものに自らも手を染めようかと思ったかというと、理由は簡単。

イタリアでは(大好物の)シソの葉が手に入らないからである。(15年以上住んでいて少なくとも個人的には生の大葉を何処にも見たことがない。)

たまに和食な気分を味わいたくなって、日本食レストランに行く。
どの店に行っても寿司や刺身の盛り合わせを頼むとネタとネタの仕切りにレタスが使われていたり、ひどい時はレモンの薄切りが挟まっていたりする。
大根のツマの替わりにパセリなど、お茶を濁すというレヴェルではない。

ローマでは(多分イタリア全土的に)寿司刺身、味自体に多大な期待はできないのであるが、このように付け合せの貧弱さでそのランクが更に一段下がることになる。

大葉なしの刺身の盛り合わせ。クリープを入れない(自分は別に入れないのであるがモノはいいようの例として)コーヒーのようなものだ。

そんなわけでイタリアにいると日本語の活字に対してそうであるように大葉にも餓えている。日常的にそんな状況が続く。

日本に帰ったときは、ここぞとばかりスーパーで見つけては必ず買っていたくらいだ。

とにかく。無いとなると諦めるか自分で作るしか選択肢が残されていない。

実は彼女の方は前のアパートにいたときに共同屋上で、鉢にシソの種まきをして育てていたことがある。
が、芽が出る前に、ただの土だけだと思われのか、何者かに掘り返され別のものを植樹されてしまったという苦い経験を持っている。
それでも残った種から出てきた小さな新芽を何とか見つけ出して育てようとしていたのだが、最終的には根腐れしてそのまま全滅してしまった。

しかし今のアパートには自前のバルコニーがある。

そんなわけで再チャレンジを思い立ったらしい。

大葉が育ったら刺身に巻いて食べたりするだけではなく、イタリア式にヴォンゴレのスパゲッティーを作ってその上に針状に刻んだものを掛けて試したいと思っている。これは絶対美味いだろう。

たくさんで採れたらトマジーノのレストランにおすそ分けして試してもらうのを目標に鉢の面倒を見たい。

さて我々は植物を育てるという能力に於いて金剛石(今読んでいる漱石の「吾輩は猫である」で金剛石の表記にダイヤモンドの読みを当てているのでつい、真似−笑)の原石を有しているのだろうか。

大望を背負ったシソ君↓