Chiezaru’s diary

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日曜の映画


【 鹿を襲うドラゴン 】- 蔵ローマ国立博物館・マッシモ宮
Olympus E-30+12-60mm f/2.8-4 ED SWD

昨日観た映画は『ゲド戦記』。スタジオジブリ。2006年公開、監督宮崎吾郎、宮粼駿長男。

『ゲド戦記』 (映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%89%E6%88%A6%E8%A8%98_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29

借りてきたDVDがなんと日本語なしの英語版。
仕方なく英語で鑑賞。いかにもジブリ・スタイル絵の映画なので最初耳が英語に上手くついていかなかった。
ファンタを飲んだつもりで口に含んだのが午後の紅茶で、一瞬混乱するするような倒錯感とでもいうか。

最初から唐突でストーリーの展開についていくのが少し難しい。
話の運び方もそれほど親切ではなく、スタジオジブリにして子供向けの映画ではない。

内容はいつものジブリ作品とは少し方向性が違っていた。
シンボルともいえる「無邪気さ」の無い子供たちが主役。
観ている最中は、今ひとつメッセージが届いてこない。

ラストシーンになってピンと来たのは、宮崎吾郎氏、言いたかったのは社会より受け入れられない者たちへのエールだったのかということ。

分裂的に精神を病むメインキャラクターの少年と顔の半分に火傷を持つヒロイン。彼らを援ける大人、ハイタカ(英語版ではSpallowhalk、スパローホーク)も頬に大きな傷のある魔法使い。

どの人物設定も中世ならば忌むべき穢れた者ども。不吉な存在たち。

社会から恐れられ、忌諱される人々が実はその魂が直ならば勇気を持って生きるべきだとそんなメッセージだったように思う。ひとつの冒険を終えた彼らがどのように生きてゆくのか。父殺しの大罪を犯した少年がこれからどう育ってゆくのか課題は多く重い。

正直、その辺の展望を今ひとつまとめ切れなかったようにも思うのが残念。
しかし父、宮崎駿氏とは違ったアプローチで迫るヒューマニズムにはまた別のリアリティを感じた。