Chiezaru’s diary

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ローマ奇譚というか


【 龍安寺石庭 】- 京都
Olympus PEN E-PM2 + Panasonic Lumix G Vario 7-14mm F4 ASPH

村上春樹氏の本が好きで全てとは言えなけれど全作品のすくなくとも八割は読んでウチに所蔵してある。
作品によっては一定の時間のサイクルを空けて再び手に取る。

イタリアに住んでいると日本の本を入手するのが面倒だということもあって先月日本に帰ったときにランダムに二冊(あまり買うとただでさえ重い荷物がさらに重くなるので文庫を二冊だけで我慢)まだ読んでいない村上作品を購入してローマにもって戻ってきた。

先日読み終わった『神の子供たちはみな踊る』と今ポケットに入っている『東京奇譚集』。

『東京奇譚集』で村上氏は自らの体験談も通して人生の中に起こる「不思議な出来事」について書いている。
その不思議な出来事というのはいうなれば偶然とは思えない偶然、起こるエレメント同士の必然性、見方によっては運命的なつながりを疑ってしまうような出来事のこと。

そんなとき人は不思議な感覚に陥る。それをテーマにした短編集。

こういうことは多分だれにでも起こっているのだろうとおもう。

自分的にも村上氏の本によらず、一冊の新しい本を特に内容を知らずに選んで、進めていくうちにまさしくタイムリーに今の自分に必要だったと思う(都合の良い誤解ともいう-笑)ことがあったり、日記にとあるコンセプトにしたがって選んだ写真を載せてみると、まったく同じ日にブログ仲間が自分とほぼ全く同じ観点なのに、なるほどそういう見方と表現の方法があるんだと感嘆してしまう写真をのせていたりする。

短編集の『神の子供たちはみな踊る』を読んだあと、備忘録的に一言日記にそのことを書いた。その直後、この本の中の『蜂蜜パイ』が好きだというコメントをemu703さんが寄せてくれたとおもったら、翌日に読み始めた『東京奇譚集』の中で『日々移動する腎臓のかたちをした石』に出会ったりする。

『蜂蜜パイ』(2000年2月)の主人公は淳平。そして『日々移動する腎臓のかたちをした石』(2005年6月)はその淳平のストーリーなのだ。村上作品で一人の登場人物がまったくの同一人物でタイトルのちがう二冊に出てくるのは稀なことなので、まさしく村上春樹的「不思議な出来事」に突き当たってしまった感があった。

偶然といえば偶然なのだがやはりどうもやはり不思議な感じがする。

そういえば随分昔、普段音楽などまったくといって聴かないのに、やたらと頭の中で「大きな古時計」の曲が反復される時期があった。そしてその半年後くらいだっただろうか高校野球で「大きな古時計」が入場行進曲使われたことがあった

当時そこそこ話題になったのではないだろうか。でも自分はローマにいて高校野球の入場行進曲に「大きな古時計」が選ばれたなどということは全く知らずにいたので、なにかの拍子にどこかの伝で聞いた時なんだか随分不思議な気分になったのを覚えている。

ユング的には窓ガラスに来てそこに留まっている虫でさえそこにいるのは偶然ではないのだとか。

必然なら必然でよいし偶然ならそれもまたそれでよいと思う。

でも世界はユング的深層心理学的に、ガイア的につながっているという可能性に思いを馳せるのはまた愉しい。

ただの偶然ととらえるか運命のいたずらと捕らえるか。

それほど重大な意味を与えないように注意しながら運命論をとるという姿勢でいるとそれはちょっとした人生の彩りになるような気もする。

ちょっと禅的。

ただしプラスの意味合いがあるときだけ限定。

これ大切。