得難し廃れ易し
【 カトリック・キリスト教、聖人バルトロマイ 】- サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会、ローマ
Olympus E-5 + Olympus Zuiko Digital 12-60mm f/2.8-4 ED SWD
(昨日まで載せた写真の「せいじん」の音を踏みつつ、まじめな方向に転換することにします。ストックから。イタリア語での読みはバルトロメオ。キリストの十二使徒はそれぞれ凄惨な没し方をしていると思うが、それにしても皮を剥がれて死ぬなんて真っ平だとおもう。『ねじまき鳥クロニクル』の山本の惨殺のシーンが頭をよぎる。)
シャワーを浴びながら歯を磨くのが好きだ。
靴の踵を踏み潰してサンダルのようにして履いているのを見るのが嫌いだ。
(80年代に日本にはたくさんいた。最近ではあまり見かけないような気もする。でもしばらく日本にいないので良くわからない。ヨーロッパではまだ見たことがない、と思う。)
嫌いなことといえば、それ以上に不快なのがテンパッた人間。
他人がそうなるのを目にしたくないし、自分がなるのも嫌なものだ。
さすがに二週間かけて少しずつ貯まっていた仕事を一気に処理するのには時間がかかる。昨日もあと一時間残業を伸ばせば全て片付いたかもしれない。
が、かなりテンパッて来ていたので、切りのよいところで仕事はやめ。
個人的にストレスがたまりすぎても、キレるということは無い。その代わり外の世界とのコネクションをシャットアウトする傾向になる。俗に内に篭るというやつだ。
判っているので、自分でコントロールする。
一週間ぶりにランニングをした。
たかだか7日サボっただけで、走ることがキツイ。
心拍数をチェックしても、いつものペースより遅いくらいなのに170を超えている。
フォームが安定せず腰が下がる。
最後の400メートル、ラスト・スパートのスピードの乗りもいまひとつでゴールした。6キロを31分強。
脛の筋肉が攣る一歩手前になっていた。
しばらく間を空けて運動すると身体能力の低下が如何に速いかということを思い知らされる。
ひと夏通してあれだけ根気強く時間をかけて獲得したものが、これほどまで簡単に喪失されてしまう。
理不尽だとこぼしたくもなるが、これが道理というもの。受け入れるしかない。
人生とは結局、なにかにつけて、得難く廃れ易いものなのだ。
習慣的に運動する理由の一つはこれで、ごたごたとした第三者的介入無くある種の純粋な真理に向き合えることにあったりする。文字通り体感できるところがよい。
教訓というのはひょっとするとちょっとした苦痛の中に見つけ出し易いものなのかもしれない。