Chiezaru’s diary

字を書くときはChiezaruで写真を撮るときはMeta_Monkey

人間徒然 - 追記


【 和食 】
Olympus PEN E-PM1 + Panasonic lumix 20mm f1.7
(昨日は彼女も一緒にご招待に預かって久しぶりにまっとうな和食に舌鼓。- ローマにはやたらとジャパニーズレストランがあるが「まっとうな」ものを出すところとなると稀有。美味しく頂きました。)

歳をとるごとに他人に圧倒的にインスパイアされるという機会は減ってきていると思う。
感性の鈍化なのか人生への慣れなのか。
主体的な時間は少しずつ疎の方向に向かっているようにも感じる。(毎日の時間の過ぎ方がどんどん速くなる。)

とはいえそれ自体にたいした不満はない。

毎日新しい発見と感動に心を奪われるというもの素敵なことだとは思うけれど、それでは疲れれてしまう(老人の発言だな・・。)

それでも、良い出会いがあって、心に残る時間を過ごせることはたまにあって、客観的に自分を観察してみると、夢を見たり(いつもはあまり見ない)、通勤中の読んでいる本のなかの字面を追っていても頭に浸みてこなかったり、そんな現象が起こる。

自分の中で何かを整理しているのだろう。
つまりそのとき入ってきた情報が自分にとって何かしら新しい刺激であったはずなのだとわかる。

と、理屈っぽく書いてもあまり意味がないのでここでやめて、何が言いたかったかというと、結局、昨日の晩餐は楽しく自分の人生にとって意味のある人びととのふれあいだったということ。それに尽きる。

前にもどこか書いたけれど、友は宝。

友とは自分自身の延長だと認識している。
自分にない資質を持っている他人同士が、根っこの部分で共通の何かによってつながる。

双方向的な自己拡大というのか。

だからなんらかの理由で友を失くすときは大きな痛みを伴う。
文字通り自分の一部を切り取られるからなのだと思う。

昨日の話に戻るけれどやっぱり「人間」なんだよな人間ってと思ってしまうわけだ。

自分を取り囲んでくれる人々に感謝。

ところで書きながらふと思い出したこと。
忘れる間に記録してしまう。

距離と人とのつながりについて。

不思議なもので自分にとって大切な人ほど遠くに行くほどつながっているという感覚が強くなる。
距離感の保障してくれる関係と名づけている。

細かく書くと長くなるので、またこれについては時間のあるときに気が向いたらまた取り上げてみたい。

今日の文章はいつもに輪をかけて取りとめがない。
脳みそがマルチタスクで何かを処理中なようだ。
メモリ不足。