Chiezaru’s diary

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鍵になる言葉


【 アダムの創造 】- 、レオナルド・ダ・ヴィンチ(失礼しました正しくは)ミケランジェロ・ブオナローティ、創世記より。
Nikon CoolPix E5700

(気に入っていて、自分のアイコンにも使っている「アダムの創造」。人間、アダムに全能なる神が智を授けるシーン。ヴェールに包まれた神とそれを取り巻く天使たちは脳の解剖学的断面図に酷似。ダ・ヴィンチミケランジェロ曰く全能=全脳なり、ということか。写真は職場のホステルに壁に描かれたコピー。クロップした上にレタッチしてあります。本物はヴァチカン博物館、システィーナ礼拝堂天井に。)

先日時間についての日記を書いて、Mixiのほうにも同じものを載せたところクリエーター系の仕事をしている高校の同級生から久しぶりに、歳をとると時間が経つのが速くなるのは生理現象なのであって、一年は三歳児には人生の三分の一、四十歳人には40分の一のスピードで過ぎてゆく、それでも四季のあるところに住んでいると寒い冬などとっとと過ぎて欲しいのに長く感じるねえとういう内容のコメントをもらった。

このような尺度で時間について考えことがなかったので、これを読んで目からウロコというか、なんだか目の前の扉がバッと開いて急に見通しが良くなったような気がした。
もちろんこの概念が正しいのかどうなのかと言うのは誰にも証明できないと思う。
あくまでも感じ方の問題なのだから。
しかし、ひとつの仮定として、受け入れると想像力が広がる。

この「年齢分の一」の方程式に沿えば、長く生きれば生きるほど人にとって時間の流れは速くなる。
これはある程度当たり前として、思ったのは生まれたその時をスタート地点とすればその前はどうなるのかということ。
非常にSFチックな話になる。分母がマイナスになるわけで、そうなると日常的な時間の感覚が通用しなってしまう。つまり赤ん坊はお腹の中にいる間、まったく違う時間軸の中にいることになる。

この段になって思い当たるのは受精卵から度重なる細胞分裂を経て人間に至るまでに、ヒトは生物の進化の歴史を辿るという説だ。何千億年の歳月を十月十日で再現する胎児はまったく時間旅行をしているのと同じようなものだ。
そうなると母なる女性の子宮というのはタイムマシンであるといえるのであって、これは(今更ながら)すごくエキサイティングな話になってくる。

同時にこれまでにこの世に生まれたありとあらゆる人間も歴史的時間差こそあれ、個々に同じプロセスを辿ってきたわけだから、この成り立ちは過去にあってそうであり、現在においてそうであり、そして未来にも同じことが通用すると連想させられる。
そうなるとひとつの階層(プロセス)がその上下左右の階層を包括することになって、そこにイメージされるのは森羅万象であり、ストラクチャーは曼荼羅を想起させる。

こうなるとここに呼び覚まされるのは無限、永遠というコンセプトであって、もう広がりがとまらない。

・・と、何やら最初に考えていたより長くなってしまった。

ところで、人生を生きていると時々こういう鍵になる言葉に出逢う。
もちろんそれの役割を果たすかどうかというのは、その人に準備が出来ているかどうかということも大切であって、新しい気づきのためにもちゃんと経験値を積まないとな、やっぱり面倒くさがらずにいろいろやらないと駄目だなと思う。

蛇足。

これは悟りのプロセスとも互換する考え方。
「悟り」とは「気づき」のことであってそれほど大仰なものではない、大小の差こそあれ人生のあちこちにちりばめられている。
小さな「気づき」がノッド(結び目)としてネットワークを構成して、そのネットワークが更なる大きな「気づき」を作る。

やっぱり曼荼羅。
脳みそのシナプスのつながりもイメージさせる。

脳みそは立体曼荼羅。リゾームの具現体。

追記:
何千億年はちょっと大袈裟すぎでした。
ウィキペディアの地球史年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8
を見るとビッグバンが137億年前、地球誕生 〜 生命誕生が46億〜5億4200万年前となっているので、多くても数億年と書くのが妥当だったようです。